rugtaku’s diary

日々のニュースで疑問に感じたことを取り上げる

誕生日を迎えました。

 また誕生日が巡ってきた。若かりし頃は、誕生日を祝ってもらうことがうれしかった。誕生日月になると、なんとはなしに気持ちがうきうきしたものである。しかし、思春期を過ぎると、そういう気持ちを他者に知られるのが気恥ずかしくなり、齢を重ねた現在では、誕生日を祝う気分はほとんどなくなってしまった。というよりも、親の逝去した年齢に近付きつつあることもあって、拒否したい気分でさえある。しかしながら、一年に一度の誕生日は、一年前の状況からどのように成長したかの検証する基準にはなる。社会との関係が少しずつ絶えていく年齢に差し掛かり、いまさら自己の成長を考えてどうするという反論もあるかもしれないが、客観的な評価を周囲から聞き取りつつ可能な限り、客観的な測定を心掛けている。これからはAIに判別してもらうようなシステムを確立しても良いだろう。主観的な判別は、自己満足に陥ってしまう恐れが強い。

 家族の誕生日では、ケーキが準備されるのが普通であったが、私は別に甘いものを食べたいと思わないし(たまには無性に食べたくなることもあるのだが・・・・)、それよりも酒の肴が少しだけでもおいしいものになればと願うだけである。それはともかく、誕生日は家族にとって特別な日である。それは私にとってもそうであるべきなのだ。一年間を、あまり変わらない日常の中で無事に過ごしてきたことを感謝すべきであろう。そして、わが心の内を自省する機会になれば良いのである。

 新年を迎える時と同様であると感じる。そういう意味では、年2回気持ちを切り替える時期としてとらえるのも良いかもしれない。一年を振り返り、できればその間に経験した様々な出来事を思い出して、自分自身の言動を検証することが大切ではなかろうか。失言や間違った行動を取ってしまった場合も多いはずだが、そんな瞬間こそ忘却の彼方に送り込んでしまうのである。自分自身の気持ちが高揚した場合だけを取り上げて記憶すれば、楽しい思い出ばかりが残るかもしれない。しかし、往々にして苦い経験を思い出し、後悔することになる。

 今年は古巣から声がかかり、臨時的ではあるが昔やっていた職務をやらせてもらっている。職務自体は、人間相手なので手探りで対処することばかりだが、若い人が学ぶ環境を整備していくことだからやりがいがある。気持ちの上でも、若返った気分で充実した日々を過ごしている。

 環境が少し変わるだけで、人生が活気づく。一時的なものでしかないかもしれないが、それでも日常に変化を与えてくれる。来年のいまごろは、少しは成長した自分を意識することができるかもしれない。そう考えるだけで楽しみにもなる。一日一日を、自分の頭を使い、工夫を積み重ねることで、充実したものにしていく。そのきっかけを自らが作り出すか、引き寄せることができれば、まだまだ人生は捨てたものではないのかもしれない。だからこそ、より多くの人々が、希望をもって日々を過ごせるような社会の実現を目指す必要がある。