rugtaku’s diary

日々のニュースで疑問に感じたことを取り上げる

防衛費はいつから2倍の主張が増えたのか?

 いつの間にか、規定路線のようになっている防衛予算の2倍化が当たり前のように伝わってくる。どこにそんな財源はあるのだろうか、ロシアのウクライナ侵攻以降、安全保障に対する意識は高まっているのは事実だろうが、そんな国民の意識に付け込んで、防衛予算をこの時とばかりに増額することを主張するのはいかがなものであろうか。

 

 政治の役割は、限られた予算をどのように優先順位をつけて、配分するべきか決定することにある。それこそ、政党がどこに重点をおいて予算配分をするのか主張して、それを国民がそれぞれの価値観に基づいてどの政党を支持するかを決めるのが政治ではないだろうか。歳入が無尽蔵に増え続けるのであれば問題はないが、税収が思うように増えず、歳出を限りなく制限せざるを得ないのであれば、必然的に予算配分の優先順位を決定しながら、予算の作成が行われるべきであり、世論の支持を最低限取り付けるべきである。選挙が行われる際には、その争点は、予算作成において重点項目ををどうするべきかを問う場にすべきではないか。

 

 それが我が国の選挙の場合、具体的な論争を避けるかのように、漠然とした議論に終始する場合が多い。論理的に具体的な数字を思い浮かべて各党の主張を考慮できるような選挙公約はほとんど聞いたことがない。残念ながら、それでは消極的な選択、つまりまだこちらのほうが現実的かという視点で投票行動が行われることになる。民主党政権が国民の期待を大きく裏切り、国民の政治に対する関心は希薄なものになってしまったが、それが自民党を支える力となっているのは否めない。

 

 そういう意味で。昨日起きた安倍晋三元首相に対するテロ行為は、民主主義に対するあり得ない暴力行為として煽情的な報道がおこなわれたことは残念でしかない。確かに暴力に訴える行為が許されるはずはない。しかしながら、犯行動機を精査したうえで、民主主義に対する挑戦かどうかを見きわめる手順が欲しい。あれでは犠牲者となった安倍晋三元首相が属する自民党に対する同情票を増やすだけではないか。

 

 投票日直前の事件として、与党自民党を利するような、TV各局の報道姿勢はいかがなものであろうか。中立報道を旨とするマスコミだからこそ、時局の報道姿勢を確認しながら番組編成を行いべきではなかったか。たしかに選挙の応援演説に入った安倍晋三元首相を狙撃したことで、選挙戦終盤の「民主主義に対する挑戦のような行動」という形で受け止められたようではあるが、犯人の犯行動機に対しては、これから検証されるのであり、その検証結果次第で民主主義に対する挑戦というよりは、単なる怨恨的な犯罪であったのかもしれない。にもかかわらず、あたかも民主主義に対する暴力的挑戦であり、安倍晋三元首相は尊い犠牲者として注目を浴びることになった。野党党首たちも選挙戦中のテロ勃発であり、犠牲者である安倍能登首相を悼む哀悼の言葉が始終画面を占領し続けた。こうなると、与党自民党を擁護するマスコミという印象が強くなってしまった。

 

 できうるならば、現在の大幅な金融緩和を続けることによって、日米の金利差や欧米との金利差から円安が進行し、原材料高にプラスして円安による諸物価高騰を抑制することが日本には必要である。その経済政策の実行力で、あまり期待できない与党自民党に鉄槌は与えられないまでも、少なくとも緊張感をもって国民の世論を尊重しながら国民の家計を安定させるような政策運営を可能とするような、政治状況を作り出す選挙結果を期待するのである。

 

 電力料金も、食料品も昨年比で1.2倍を超える値上げが続いている。その傾向を鎮静化する政策はまだ出てきていない。そして置いてけぼりを食っているのは、日本の貧困層なのである。政治家は与党議員だけでなく野党議員もまた危機感が切迫していないのではないか。困窮する庶民の増加を切実な問題として、解決に向けて努力していこうという国会議員が少ない状況を憂うるばかりである。