rugtaku’s diary

日々のニュースで疑問に感じたことを取り上げる

ビッグデーターの脅威

 少し調べておかないと、そんな軽い気持ちでパソコンやスマホで検索すると、その後の画面にはその検索情報に関連した広告が次々と登場してくる。たとえば鎌倉ゆかりの花を調べると、ご丁寧にそれが見ごろの時期や、旅行する気がなくても宿泊先の案内が出てくる。至れり尽くせりといえば聞こえは良いが、私自身よりも私のことを理解しているものがあることに少なからず違和感を感じざるを得ない。検索後は、間違いなく機器は進化している。そう考えておいて間違いないのだろう。

 

 そういえば、いまやテレビのニュース番組のほとんどが、報道順位をAIによって決めている。日々のニュース報道の反応を分析していれば、どのニュースが人々の関心度が高いか、下手に人間が判断するよりは、AIのほうが正確に判断するのだろう。データー分析による予測は、もはやAIにまかせるべきなのかもしれない。病気の判断も血液検査の結果やCT検査、MRI検査などを照合して医者が決めるのだろうが、症例が集まれば、AIの判断がより正確であろう。

 

 一方で、個人情報に対する意識が高まっているように見えるが、実際はますますデジタル機器の使用が高まる中で、どんどん個人情報が収集されていると考えられるので、AIに人生の進路をゆだねるようになるかもしれない。しかも検索機能をフル活動すればするほど、より自分仕様の情報に自分の行動を制限されるようになっているようだ。プライバシー保護を謳う中で、せめぎあう便利さと情報流出の対比が耐えず問われる。自分好みの意見を述べるサイトを見つけ出すことは、その一方でそれとは逆の意見をシャットダウンする形になってしまう。それは正解に近付いていると信じていた行動が、実はどんどん対極のフェイクにはまっていくという危険性をはらんでいくということでもある。

 

 考えれば考えるほど、なんとも悩ましい現実であるが、便利さを許容すればするほど、事実として認識していたことが、実際はあまりに不透明な結果しかもたらさないことに気づく。それは私自身の判断力に対する他者の信用度も低下させることになる。自信をもって判断してきたことが、揺らぎの中で迷いをもってしまうのである。自己決断力も弱めてしまい、他者への影響力もどんどん薄れていく。何とかしなければという焦燥感は忘却の中に放置され、そして互いの存在感を遠ざけていく。

 

 これが近未来に私たちに突き付けられる現実なのかもしれない。人間としての尊厳を失うことなく、AIの判断力に伍していく。そんな気概をいつまで持ち続けられるであろうか。